渡邊大門の日本中世史ミステリー

なんてケチくさい…家臣からも呆れらるほどの「どケチ戦国大名5選」 (1/2ページ)

渡邊大門
渡邊大門

 コロナ禍で経済回復が厳しい昨今、往時のバブル期のように、社長や上司のおごりで飲み歩くこともなくなった。安い居酒屋へ行っても、上司や部下に関係なく、1円単位まで正確に割り勘するという。上司も給料が上がらないうえに、教育費、住宅ローンで苦しいのだ。

 戦国時代、大成した戦国大名には、どケチが多かったという。今回は5人の戦国大名を取り上げ、彼らのどケチぶりを検証することにしよう。

第5位 徳川家康(1543~1616)

 家康は幼い頃から駿河今川家で人質生活を送っていたので、すっかり倹約や窮乏に慣れていた。その忍耐強さは、後世になって「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」という狂句によくあらわれている。

 家康は厩が壊れた際、「そのほうが馬が頑強になる」といって修理をしなかった(『明良洪範』)。馬が野ざらしになっても、風雪に耐えて強くなるという理屈だ。

 家康が座敷で相撲をしているとき、畳が傷まないように裏返しにさせたのも有名な逸話である(『駿河土産』)。ただ、こちらは、合理的といえるかもしれない。

 家康は百姓だけに苦労をさせてはいけないと考え、あえて白米ではなく麦飯を食べていたという(『正武将感状記』)。家康は粗食を好み、名物の八丁味噌で麦飯を掻き込んで腹を満たしたのだ。粗食は、家康の長寿の秘訣でもあった。

 家康は質素な生活に努めたが、肝心のときには必要な出費を惜しまなかった。大井川に舟橋を架けたのも、その一つである(『信長公記』)。家康が最後に天下人になった秘密とは、倹約に徹して時を待ったということになろう。

第4位 豊臣秀吉(1537~98)

 秀吉は黄金の茶室を設けるなどしたので、決してケチではないような印象を受ける。しかし、幼い頃の秀吉は貧しい農民の子だったので、生活は苦しく倹約が強いられた。家康以上に我慢強かったかもしれない。

 小瀬甫庵の『太閤記』には、「秀吉は富める者を優先し、貧しき者を削った。どうして道(人の道)に近いといえようか。百姓から税を搾り取って、金銀の分銅にして我がものにし、余った金銀は諸大名に配った。下の者(庶民)に配ることはなった」とある。

 秀吉はかつて困窮生活を送っていたものの、決して貧しい農民のために施しをするのではなく、逆に税を搾り取って懐に入れる、最悪の政治家だったといえるかもしれない。

 フロイスの『日本史』では、秀吉の強欲ぶりや女性に対する執着を批判しており、その酷さはあまりに目に余ったようである。なお、秀吉は伴天連追放令を発したので、フロイスから蛇蝎のように嫌われていた。

 とはいえ、秀吉は戦争では戦費を惜しまなかった。たとえば、天正8年(1580)の鳥取城の兵糧攻めでは、商人から高値で米を買い占め、これにより敵の兵糧を断ったといわれている。

 天正10年(1582)の備中高松城(岡山市北区)の水攻めで堤防を構築する際は、高い日当で多くの人夫を雇ったという。これにより、短期間で堤防が完成した。

 つまり、秀吉は自らの権力と財力を見せつけるときはどケチだったが、戦争に勝つためにはお金を惜しまなかったのである。それが、天下人に上り詰めた秘密だった。

第3位 黒田官兵衛(1546~1604)

 官兵衛は倹約家としても有名で、無用な出費を極力避けた。むろん、それには、大きな理由があった。まず、官兵衛の倹約ぶりを確認しておこう。

 官兵衛は材木の切れ端なども、捨てずに必ず貯めることにしていた。その切れ端は、風呂焚き用に用いられたのであるが、これは普通といえるかもいえない。

 さらに、魚の骨も捨てずに干して砕いてふりかけにしたり、瓜の皮を厚くむいて、皮を漬け物にしたり、物を捨てずに再利用を心掛けていた。ここまで倹約ぶりが徹底すると、少し驚いてしまう。

 また、庭には梅の木を植え、そこから収穫される梅を梅干として食用とした。かなりの徹底振りであるが、こちらは当時としては普通といえるかもしれない。

 官兵衛が行ったのは、大胆な倹約ではなかったようで、小さなところから倹約を心掛けたといえよう。むろん、贅沢は一切好まなかったといわれている。

 一方、官兵衛は、倹約で貯めこんだお金を貧しい人に施すなどしていた。飢饉や天候不順で農民が困った際には、惜しむことなく、大胆に金銀を振舞った。その振る舞いぶりは、家臣が諌めるほどであったという。

 また、いざというときのための戦費としても、倹約により蓄えが続けられた。たとえば、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、官兵衛は牢人(浪人)衆を召し抱えるため、蓄えた金銀を惜しみなく与えたという。

 官兵衛の座右の銘は、「我 人に媚びず 富貴を望まず」だった、以後、黒田家の歴代藩主や家臣らは、この官兵衛の教えを守り通したのである。この言葉こそが、黒田家が幕末維新期まで続いた理由だった。

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